自動車レースと聞いて、多くの人が思い浮かべるのは
「F1(フォーミュラ1)」
レースでしょう。
一般の自動車とは大きく異なる、まるで戦闘機のようなフォルムのF1マシン(一人乗り)は、レースファンの憧れです。
数百馬力のエンジンを搭載し、最高時速300km超のモンスターマシンを操るドライバーたちは「F1パイロット」と呼ばれます。
また、F1はドライバーたちだけの戦いではなく、マシン本体(シャシーと呼ばれる)を造るコンストラクター(F1チームのこと)たちや、エンジンを供給する大手自動車メーカーたちの戦いでもあります。
昭和末期のバブル期に、日本企業がF1に続々参入!
元々F1グランプリは、ヨーロッパで発展したモータースポーツです。
しかし1987年(昭和62年)に、中嶋悟さんがロータス・ホンダからF1にフル参戦したことにより、日本でF1ブームが沸き起こりました。
それに伴い、各F1チームのスポンサーとなる日本企業が多数現れました。
時は1980年代後半、日本全体が
「バブル経済」
の熱狂の真っ只中にいた時代です。
そうした企業の中には、スポンサーになるだけでは飽き足らず、F1チームを買収して(!)オーナーになってしまう所もありました。
今回は、そうした企業及びチームをご紹介します。
①レイトンハウス(1987年(昭和62年)~1991年(平成3年))
不動産会社「丸晶興産」の社長で、オフィスビル・ゴルフ場・ディスコなどの経営から地上げまで、幅広くビジネスを展開していた赤城明氏は、1984年(昭和59年)から日本のレーシングチームのスポンサーになり、レース界と関わるようになりました。
しばらくして、「レイトンハウス」というブランド名でスポンサー活動を始めます。
1986年(昭和61年)には、同じく「レイトンハウス」のブランド名でアパレル業界にも進出しました。
イメージカラーはエメラルドグリーンに近いブルーで、「レイトンブルー」と呼ばれました。
そして1987年(昭和62年)には、イギリスの名門レーシングチーム「マーチ」と提携し、何と最高峰のF1に進出したのです。
1988年(昭和63年)からは、前年からドライバーだったイタリア人イヴァン・カペリとブラジル人マウリシオ・グージェルミンの二人体制となりました。
カペリとグージェルミンについては、ご記憶のF1ファンも多いでしょう。
1989年(平成元年)にチームを完全買収し、翌1990年(平成2年)からチーム名を「レイトンハウス」に変更。
しかし、チームの勢いは長くは続きませんでした。
日本でバブルが崩壊した1991年(平成3年)、丸晶興産と富士銀行(当時)の不正融資事件に絡み、赤城社長が逮捕されました。
会社の経営も急速に悪化し、F1チームの経営から撤退を余儀なくされました。
なお、丸晶興産は1998年(平成10年)に債権者の申立により、破産するという末路を辿りました。
②フットワーク(1989年(平成元年)~1993年(平成5年))
フットワークは、1981年(昭和56年)に複数の運送会社が合併してできた企業を母体とする、宅配便業者でした。
ヤマト運輸や佐川急便のように、日本を全国を赤と白のカラーリングのトラックが走り回っていました。
初代社長の大橋渡氏は、国内のモータースポーツのスポンサーになっていました。
1990年(平成2年)に、フットワークはイギリスの「アロウズ」というF1チームのスポンサーとなりました。
翌1991年(平成3年)にはチームを買収し、チーム名も「フットワーク」に変更。
この年にはポルシェエンジンを搭載しましたが、全く使い物にならず、散々な結果に終わりました。
1990年~1992年に在籍したイタリア人ミケーレ・アルボレート(かつてフェラーリでもドライブ)、1990年~1991年に在籍したイタリア人アレックス・カッフィについても、オールドファンなら覚えているでしょう。
1992年(平成2年)~1993年(平成3年)には、無限ホンダエンジンを搭載。
旧型のホンダエンジンを無限(本田宗一郎さんの息子が設立した会社)がチューンナップしていました。
そして、この2年間は日本人ドライバーの鈴木亜久里さんが在籍しました(2シーズンともノーポイントに終わりましたが・・・)。
しかし、1993年シーズン終了後に、フットワークは経営難のためF1チーム運営から撤退してしまいます。
フットワーク自体も2001年(平成13年)3月に、大阪地裁に民事再生法の適用を申し立て、事実上倒産してしまいました・・・。
大橋社長も2002年(平成14年)6月、証券取引法違反(虚偽有価証券報告書提出)の罪で在宅起訴され、同年10月に懲役2年、執行猶予3年の有罪判決を受けました。
③ラルース(1990年(平成2年)~1991年(平成3年))
1989年(平成元年)シーズン終了後、エスポコミュニケーションズ(不動産業、レンタルビデオ店『GEO』など様々な事業を運営していた)が、フランスの「ラルース」チームの株式を取得。
伊東和夫社長がオーナーに就任しました。
エスポは鈴木亜久里さんの個人スポンサーでもあった関係で、1990年から2年間、亜久里さんはラルースのF1マシンをドライブしました。
1990年シーズンは、亜久里さんとフランス人エリック・ベルナールの二人が複数回入賞し、ポイントを獲得。
同年の日本グランプリでは亜久里さんが3位に入賞し、日本人として初めて表彰台に上がりました。
ところが翌1991年シーズン、チームは打って変わって低迷。
結局シーズン終了後、エスポはバブル崩壊による経営難のため、事実上撤退してしまいました。
④ブラバム(1990年(平成2年)~1992年(平成4年))
ブラバムはイギリスの超名門F1チームでした。
過去数回、チームとしてコンストラクターズ・チャンピオンを獲得。
創立者のジャック・ブラバムやブラジル人ネルソン・ピケといったドライバーズ・チャンピオンも輩出しています。
日本人実業家の中内康児氏が率いるレーシングチームが、ブラバムの運営に当たることとなりました。
1991年(平成3年)にはヤマハエンジンを搭載。
ヤマハがチームを買収する話もあったようですが、実現には至りませんでした。
ここも例に漏れず、バブル崩壊(こればっかり(苦笑))によるオーナー側の資金難で、1992年シーズンを最後にチームは消滅してしまいました・・・。
最後に・・・。
いかがだったでしょうか?
異常とも言うべきバブル経済の勢いは、今考えても恐ろしいほどです。
いくらお金が有り余っていたとはいえ、日本国内でも超大手とは言えない企業が、F1チームを手に入れることができていたのですから・・・。
まさしく日本そのものが
「ザ・成金」
と化していたのです・・・。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。