ケケ・ロズベルグはシーズン1勝でF1世界チャンピオンに!

自動車レースの最高峰と言われる

F1(フォーミュラ・ワン)グランプリ

は、2011年(平成23年)まではテレビの地上波で放送されていました。

現在は衛星放送とネット配信でしか視聴できませんが、2021年シーズンも世界各地でレースは行われています。

 

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レースごとの獲得ポイント数で、年間チャンピオンが決まる!

多くの方はご存知でしょうが、各レースで一定順位以上で完走すると、順位によりポイントが与えられます。

年間を通じて獲得ポイントが最も多かったドライバーが、そのシーズンの世界チャンピオンに輝きます。

当然ながら、全レースで優勝したり表彰台に立ったりするのは、極めて困難です。

車のトラブルやドライバーの運転ミス、他の車との接触事故などで、レース途中にリタイアすることもあります。

ただ、大抵のシーズンではチャンピオンドライバーは、複数回優勝しています。

また、一つのチームが飛び抜けて強く、同チームのドライバー二人の争いとなったシーズンは、6〜7勝してもチャンピオンになれないこともあります。

 

シーズン1勝でチャンピオンになったのは二人だけ!

1950年(昭和25年)に始まったF1グランプリの歴史において、年間1勝しかできなかったのに世界チャンピオンに輝いたドライバーが、二人います。

1958年(昭和33年)シーズンのチャンピオン、イギリス人の

マイク・ホーソーン

と、今回ご紹介する1982年(昭和57年)のチャンピオン、フィンランド人の

ケケ・ロズベルグ(Keijo Erik “Keke” Rosberg: 1948年〜)

です。

近年のF1ファンの方は、ケケよりも息子の

ニコ・ロズベルグ(Nico Erik Rosberg:1985年〜)

の方をよくご存知でしょう。

ニコも2016年(平成28年)に世界チャンピオンに輝きました。

 

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鳴かず飛ばずの4年間の後、ケケに『神風』が!

ケケは1978年(昭和53年)にF1デビューを果たしましたが、1981年(昭和56年)までの4年間は競争力・資金力の低い下位チームを渡り歩きました。

1981年シーズンは、参戦15レース中完走3回、予選落ち5回でした。

入賞ゼロ回、獲得ポイントゼロに終わりました。

普通なら、ここでF1キャリアが終わっても何の不思議もありません。

ところが、ケケに思いも寄らぬ「神風」が吹きました。

1980年(昭和55年)シーズンの世界チャンピオンで、1981年までトップチームの一つ

ウイリアムズ

に在籍していたオーストラリア人ドライバー

アラン・ジョーンズ(Alan Stanley Jones:1946年〜)

が、81年シーズン終了後に引退。

ケケが後釜として加入することとなったのです。

 

No.2のはずが、いつの間にかNo.1ドライバーに!

そして、さらなる追い風が吹きました。

No.1、すなわちエースドライバーのアルゼンチン人ドライバー

カルロス・ロイテマン(Carlos Alberto Reutemann:1942〜2021年)

が、イギリス(ウイリアムズはイギリスのチーム)とアルゼンチンの間に勃発した

「フォークランド紛争」

のあおりを受け、開幕2戦目終了後に突如引退してしまいました。

加入1年目のケケが、No.1ドライバーとなってしまったのです。

 

1982年シーズンは、F1史上稀に見る荒れたシーズン!

1982年シーズンは、F1史上稀に見る

「荒れた」

シーズンでした。

ドライバーのストライキや、レース裁定に端を発した複数チームのボイコット、死者が出た大事故が2回など、トラブルと悲劇に満ちていました。

全16戦で11人の優勝者が生まれ、3勝以上したドライバーはいませんでした。

ケケは、チームがボイコットしたサンマリノGPを除く15レースに参戦。

そして完走11レース、ポイント獲得10レースと、確実にポイントを積み重ねていきました。

第14戦スイスGPでは、見事キャリア初優勝を飾りました。

 

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最大のライバルが事故で欠場、逆転でチャンピオンに!

チャンピオン争いをリードしていた、フェラーリのフランス人

ディディエ・ピローニ(Didier Joseph-Louis Pironi:1952〜1987年)

は、第12戦ドイツGPのフリー走行で両足を複雑骨折。

以降の全レース欠場を余儀なくされました(その後事実上引退)。

ケケはシーズン合計44ポイントを獲得して、ピローニを逆転。

見事チャンピオンを獲得しました。

前年ノーポイントだったドライバーが、翌年にはチャンピオンになるという

「シンデレラ・ストーリー」

を地で行く結末でした。

 

『公道コース』、『初開催コース』に強かった!

ケケは1985年(昭和60年)シーズンまでウイリアムズに在籍。

翌1986年(昭和61年)にはマクラーレンに1シーズン在籍し、シーズン終了後にF1から引退しました。

F1では通算5勝を挙げましたが、そのうち4勝

1983年モナコ

1984年アメリカ(ダラス)

1985年アメリカ(デトロイト)

1985年オーストラリア(アデレード)

は、全て市街地の公道コースでした。

また、1983年モナコ以外の4勝は、F1初開催のコースでした。

テクニカルな公道サーキットや、初物サーキットに強いドライバーだったのです。

 

最後に・・・。

ケケの1984年アメリカGPでの勝利は、実は日本にも縁のある勝利でした。

この年からF1にエンジンサプライヤーとして復帰した

HONDA(ホンダ)

にとって、ケケの優勝は「第二期ホンダ」の記念すべき初優勝でもあったのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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