1990年のF1ベネトン・フォードは速くて美しかった!

「ベネトン(Benetton)」

と言われても、令和の若者たちにはピンと来ないかもしれません。

イタリア発祥のファッションブランドで、1980〜1990年代には日本でも非常に人気がありました。

明るい原色を用いたセーターやシャツなどが代名詞的で、バブル崩壊後の日本でも人気は衰えませんでした。

 

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F1チームを買収し、グランプリに参戦!

小さな会社が世界的企業になり、巨額のお金を手にすると、経営者たちの考えることは万国共通です。

スポーツのチームを持ちたがります。

ベネトンの創業者一族も例に漏れず、ヨーロッパで人気のモータースポーツに目を付けました。

1986年(昭和61年)に、自動車レースのF1(フォーミュラ・ワン)チーム

「トールマン」

を買収。

「ベネトン・フォーミュラ」

として、F1グランプリに参戦しました。

 

ド派手なカラーリングだが、地味に経験を積んだ!

F1カーと言えば、メインスポンサーのイメージカラーに塗装を施した、派手な車がほとんどです。

その中でもベネトンのレーシングカーは、そのド派手なカラーリングで一際目立っていました。

さすがは派手さが売りのファッション企業です。

参戦開始後の数年は、割と地道に一歩ずつ階段を上がって行きました。

 

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1990年、日本はバブル末期。F1も大人気だった!

ベネトンのそうした努力の成果が大きく実ったのが、1990年(平成2年)シーズンでした。

日本はバブル景気の末期でしたが、大多数の人々はそのことに気付く由もなく、一般人も好景気の恩恵を享受していました。

F1グランプリは、当時フジテレビ系で全レース中継されていました。

現在40〜50歳代の方々で、毎レース日曜日の夜中にテレビ観戦なさっていた方は多いはずです。

 

トップの『3強』に勝負を挑んだ!

1990年シーズン開幕の段階では、今は亡きアイルトン・セナを擁する

「マクラーレン・ホンダ」

イタリアの超名門

「フェラーリ」

英仏連合の

「ウイリアムズ・ルノー」

がトップグループでした。

実際はマクラーレン・ホンダが頭一つ抜け出ていましたが、他のニチームも猛追していました。

それぞれ大手自動車メーカーがエンジンを供給する

「ワークスチーム」

であり、実績も十分です。

それら「3強」の間に割って入ろうとしたのが

「ベネトン・フォード」

でした。

 

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フォードも世界的メーカーだが、馬力では劣っていた・・・。

フォードと言えば自動車メーカーの元祖であり、当時のアメリカではGM(ゼネラル・モーターズ)、クライスラーと並ぶ

「BIG3」

と呼ばれていました。

ホンダやルノー、フィアット(フェラーリの親会社)にも、会社の規模や格では全く引けを取りません。

ベネトンもある意味「ワークスチーム」でしたが、パワーつまり馬力の面では劣っていました。

他の三チームが

10気筒V10エンジン

だったのに対し、ベネトンのフォードエンジンは

8気筒V8エンジン

でした。

ストレートでの速さでは、敵いませんでした。

 

天才デザイナーが加入、新しいマシンを投入!

しかし、エンジンの大きさや軽さでは、V10エンジンより有利でした。

このシーズンからベネトンに加入したチーフデザイナーは、過去にマクラーレンやフェラーリで名作と言われるマシンをデザインした、イギリス人

ジョン・バーナード。

前任者のロリー・バーン(後にフェラーリに加入)が手がけた原デザインを基に、最終デザインを完成させました。

ベネトンB190

と名付けられた新しいシャシー(車体)は、第3戦サンマリノGPから投入されました。

 

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ドライバーには、三度の世界王者が新加入!

また、ドライバー2人も、他チームに劣らない実力者を揃えました。

一人は前年より引き続きドライブする、イタリア人ドライバーの

アレッサンドロ・ナンニーニ(日本では「ナニーニ」が多かった)

です。

イタリアの有名菓子店チェーンの御曹司で、姉は有名歌手のジャンナ・ナンニーニです。

1989年(平成元年)の日本GPでは、セナの失格による棚ボタではありましたが、F1初優勝を飾りました。

そして、新たに加入したのが超大物ブラジル人ドライバーの

ネルソン・ピケ。

1981年、1983年、1987年の3回世界チャンピオンに輝きました。

1988〜1989年に在籍したロータスでは1勝もできず、限界説も囁かれていました。

新天地で再起を図ったのです。

 

ユニークな契約で、やる気を刺激!

有名な話ですが、このシーズンのピケは、チームと変わった形の契約を結んでいました。

F1では当時、各レースの順位に応じて

優勝 → 9ポイント
2 位 → 6ポイント
3 位 → 4ポイント
4 位 → 3ポイント
5 位 → 2ポイント
6 位 → 1ポイント

が与えられました。

ピケは、

「1ポイント獲得するごとに10万ドルが支払われる」

という契約を結んでいたのです。

レースで優勝すれば、

10万ドル ✕ 9 = 90万ドル

が手に入る計算です。

おそらく基本給はあったのでしょうが、自分の頑張り次第で年俸額が変動します。

モチベーション(やる気)を上げる手段としては、面白いです。

 

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小回りの効くマシンで奮闘!3強に割って入った!

ピケとナンニーニは、非力ですが運動性に優れたマシンで奮闘。

ピケは全16戦中12戦でポイントを獲得。

第15戦日本GPと第16戦(最終戦)オーストラリアGPで、2連勝を飾りました。

合計44ポイントを獲得しました(当時は、全16戦中11戦のポイントが、高い順にカウントされました。6位の1ポイントはドライバーズランキングでは加算されず、43ポイント)。

10万ドル ✕ 44 = 440万ドル!

ナンニーニも第14戦までで21ポイントを獲得しましたが、日本GP直前にヘリコプター事故で右腕を切断。

幸い、手術の結果右腕はつながり、動かせるようになりました。

しかし、F1をドライブするのは困難で、F1からは引退。

その後は、ツーリングカーレースで活躍しました。

日本GPとオーストラリアGPで代役を務めたブラジル人ドライバー

ロベルト・モレノ

は、日本GPでピケに次いで2位入賞。

ベネトンのワンツー・フィニッシュとなりました。

この結果、ベネトンは獲得ポイントでウイリアムズ・ルノーを上回り、コンストラクターズランキングで3位になりました。

見事3強の牙城に割って入ったのでした。

 

最後に・・・。

F1の世界で有名な名言に

「美しいマシンが速いとは限らないが、速いマシンは例外なく美しい。」

という言葉があります。

1990年のベネトン・フォードは、まさしくこの言葉を地で行くマシンでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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