近年は、日本人サッカー選手がヨーロッパのクラブでプレーするのは、普通のこととなりました。
ヨーロッパを代表する強豪、いわゆる「メガクラブ」で活躍する選手こそ見当たりませんが、スペイン、イングランド、ドイツ、イタリア、フランスの「五大リーグ」のクラブに所属する選手は増えています。
1980年代後半~90年代は、イタリアが欧州最強だった!
その中で、イタリアの一部リーグ(トップリーグ)は
「セリエA」(Serie A)と呼ばれます。
今でこそスペインなどの後塵を拝していますが、1980年代後半~1990年代末までは、「世界最高峰リーグ」と言われ、世界中のスター選手たちがプレーを希望していました。
ACミランを始めとして、ユヴェントス、インテル・ミラノなどの名門・強豪クラブが優勝を争い、ヨーロッパのカップ戦でも頂点に立つなど、「ヨーロッパ最強」に相応しい成績を残していました。
セミプロの家具職人が、セリエAのクラブに加入!
そんなセリエAの、しかも優勝回数が20回を超える超名門に、家具職人をしながらセミプロクラブでプレーしていた選手が入団したという、嘘のような実話が存在します。
その選手の名は
モレノ・トリチェッリ(Moreno Torricelli:1970年1月23日生まれ)。
少年時代からサッカーを続けていましたが、名門クラブのユースなどでのプレー経験はありません。
1990年から2年間、セリエD(セミプロリーグ)の「カラテーゼ」というクラブに所属していましたが、普段は家具工場で家具職人として働いていました。
当時のトリチェッリにとって、カルチョ(イタリア語でサッカーのこと)は、「趣味」でしかありませんでした。
名門ユヴェントスとの練習試合がきっかけで、プロ契約を結んだ!
しかし1991年の夏に、彼の人生を大きく変える試合が行われました。
イタリアの超名門クラブ「ユヴェントス」(Juventus)が、トリチェッリの地元近くでシーズン開始前の合宿を行っていました。
そして練習試合の相手に、彼が所属するカラテーゼが選ばれたのです。
トリチェッリはその試合に出場しましたが、彼のプレーが当時のユヴェントス監督ジョヴァンニ・トラパットーニらクラブ関係者の目に留まりました。
翌1992年の春、トリチェッリはトリノ(ユヴェントスの本拠地)に向かい、トップチームの練習に参加。
一種の試用期間、入団テストのようなものです。
そこでもトラパットーニから高評価を受けました。
同年夏には正式にユヴェントスと正式契約を結び、クラブの一員となったのです。
プロ経験のない成人選手がいきなり一部リーグのクラブに加入するのは、極めて異例です。
それも、イタリアを代表する名門です。
これこそ、シンデレラストーリーの典型例と言えるでしょう。
ユヴェントスでは、取れるタイトルは全て獲得!
しかし、トリチェッリのサクセスストーリーはこれだけでは終わりません。
入団初年度の1992年~1993年シーズンには、UEFAカップ(現:UEFAヨーロッパリーグ)優勝。
1994年~1995年シーズンには、セリエA優勝とコパ・イタリア(国内カップ)優勝の国内二冠。
1995年~1996年シーズンには、UEFAチャンピオンズリーグ優勝(クラブにとって11年ぶり2回目)。
1996年末にはインターコンチネンタルカップ(別名トヨタカップ)優勝。
1996年~1997年シーズンと1997年~1998年シーズンには、セリエA連覇。
ユヴェントス在籍6年間で、国内外の取れるタイトルを軒並み手にしました。
クラブに対する貢献は、非常に大きなものでした。
世界各国から、華々しい経歴のスター選手たちが集まっていたユヴェントスにあって、トラパットーニや後任のマルチェロ・リッピ(2006年ドイツ・ワールドカップの優勝監督)から重用されたことが、トリチェッリの能力の高さを物語っています。
イタリア代表としても、1996年にイングランドで開催されたヨーロッパ選手権に出場。
1998年のフランス・ワールドカップでも最終メンバー入りを果たしました(残念ながら本大会でのプレー機会はなし)。
最後に・・・。
1998年~1999年シーズンには、同じくセリエAのフィオレンティーナに移籍。
当時の監督は、恩師のトラパットーニでした。
4年間プレーした後、2002年~2004年の2年間はスペインのエスパニョールでプレー。
2004年~2005年シーズンにイタリアへ戻り、セリエBのアレッシオで1シーズンを過ごした後に現役を引退しました。
プロサッカー選手として、非常に実り多いキャリアを送ったと言えます。
こうした話を見聞きすると、スポーツに限らずどんな分野でも、地道に真面目に打ち込んでいれば、何らかの奇跡が起こることもあり得るのだと、希望が湧いてきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。