ジャズ・トランペット奏者で
「ジャズの帝王」
の異名を持つ
マイルス・デイヴィス(1926年~1991年)
の名前は、ジャズに全く関心のない方でも、一度はお聞きになられたことがあるでしょう。
1950年代のハード・バップ、1960年代のモード・ジャズにおける最重要人物の一人であり、電子楽器を使ったエレクトリック・ジャズでも先駆けとなりました。
モダン・ジャズの時代において、まさしく「帝王」と呼ばれるにふさわしい天才でした。
そんなマイルスが若い頃、現在で言うところの
ニート(NEET)
(教育も受けず職業訓練も受けず、仕事にも就かない状態の人)だったと言われると驚かれる方も多いのではないでしょうか。
マイルスは、実は『いいとこのお坊ちゃま』だった!
マイルスは1926年5月26日、アメリカはイリノイ州オールトンで生まれました。
翌年には同じイリノイ州のイーストセントルイスに移り、18歳でニューヨークに行くまでそこで過ごしました。
祖父はアーカンソー州に広大な土地を持っていました。
そして父親は歯科医師、母親は音楽教師という、恵まれた家庭でした。
マイルスは、アメリカに今もはびこっている人種差別を厳しく批判し続けました(自身も差別の被害に遭いました)。
よって、我々ファンは勝手に「貧困」というイメージと結び付けがちです。
しかし実際は、中流家庭の
「お坊ちゃま」
だったのです。
ニューヨークへ渡りプロデビュー。しばらくは順調だったが・・・。
前述の通り、マイルスは18歳で単身ニューヨークに行き、名門ジュリアード音楽院に学びます(後に中退)。
その後、ジャズの歴史に燦然と輝く天才トランペッター、チャーリー・パーカーの元で、ジャズ・ミュージシャンとしてデビュー。
それからしばらくは、順調なキャリアを築いていました。
ところが、ある問題がマイルスの心身を蝕んでいきます。
若いジャズ・ミュージシャンにはありがちでしたが、マイルスも
「麻薬」
に溺れてしまったのです。
仕事を干されたが、生活費にもクスリ代にも困らなかった・・・。
そして、レコーディングやライブをすっぽかすなどの不義理を重ねました。
マイルスは徐々に干されて、仕事がなくなってしまいました。
普通なら、日々の生活にも不自由するはずです。
ところが、マイルスは実家から仕送りを受けていたそうで、生活に困窮することはありませんでした。
残念なことに、麻薬を買う金にも困らなかったのです・・・。
ジャズ界最高のレコード・レーベルと言われる
「ブルーノート(BLUE NOTE)」
の創立者兼プロデューサー、アルフレッド・ライオンがマイルスの才能を高く買っていたことから、何回かレコーディングをさせるなどしていました。
そうして、何とかマイルスはジャズ世界に踏み止まっていたそうです。
同年代の若き才能を目の当たりにし、ヤク断ちを決意!
そんなマイルスでしたが、ジャズのライブには観客として時々足を運んでいました。
そして、同じくトランペッターで若手のホープである、クリフォード・ブラウンらの演奏を聴いて、危機感を抱いたと言われています。
「こんなクスリでラリッた体のままじゃ、アイツらの演奏には勝てない・・・。」
一念発起したマイルスは実家に戻り、数日間(諸説あり、3日とも2週間とも言われています)自室にこもって「ヤク断ち」をしたそうです。
そうして麻薬の悪癖から抜け出したマイルスは、ニューヨークへ戻りました。
そして、ジャズ界のスーパースターへと駆け登って行きました。
同年代の才能溢れるトランペッターたちの姿を見たことで、マイルスの心の中に眠っていたジャズへの熱い思いが目を覚ましたのでしょう。
もしそうしたきっかけを得られないままだったら、若きマイルスはそのままクスリ漬けの自由気ままな暮らしにどっぷり浸ってしまい、再起するどころか生命も危うくなっていたかもしれません。
最後に・・・。
「ジャズの帝王」が若き日の一時期とはいえ、実家からの送金でブラブラ暮らし、麻薬に溺れていたというのは、意外な逸話です。
裏返せば、現在ブラブラして無為な日々を送っている若者も、何かの機会に恵まれれば進むべき道を見つけ、将来大きな事を成し遂げるかもしれないということです・・・。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。